感想ありがとうございます。とても面白い見方をしていらっしゃるので、大変興味深く拝読させて頂きました。
> 疑問を投げ掛けるだけの感想になってしまってすみません。 最近、小説には「曖昧さ」から来る余韻も大切ではないか? と、考えるようになりまして、100円玉〜はそういう意味で論点をぼかした作りにしております。読者の想像でいかようにも不足部分を補って貰いたいと思っておりましたので、疑問を持って頂けるのは逆に嬉しく感じます。
> 主人公のつま先にぶつかった誰かの落し物。 > 大人になった主人公は献金して、いい気分を味わう。 > それは大人になった証拠だったのでしょうか? これが非常に面白かった! 「献金故に主人公はよい気分になった」と並木さんは受け取られたのですね。私は思いつきもしなかったので、なるほど、こんな考え方があるんだ、と、目から鱗の気分です。うーん。どっちかと言うと「献金してハッピー」でなく、「ハッピーだから献金」のつもりだったんだけどなー(笑)。 但し、前述しましたように、読者の受け取り方にその人毎の多様性が生まれて欲しいと思いながら100円玉〜を書きましたので、この場合、並木さんの抱かれました疑問については、作者である私の意図などどうでもよい、ということでご容赦下さい。自由に解釈して頂ければ、と思います。
> もしもその100円の重要性が、5年生の時の主人公にとってのものと同様のものだったなら? ここも面白い解釈です。文面から察するに(違っていたらゴメンなさい)、並木さんは100円という「価値」感を強く意識していらっしゃるように思えます。で、作者としては入手時の経緯を加味した100円という「重さ」を意識していたつもりです。ですが、しつこく前述の通り、「つもり」でしかありませんので、並木さんの観点を是非優先させてお考え下さいませ。 とても勉強させて頂きました。
最後ですが。 > 初老を目前にしたいい大人は、100円玉を『探している子供がいるかもしれない』為に、交番に届けたりはしない。 うーん。まあイイ大人でも子供でも、イマドキの人は100円を交番に届けたりしないように思いますが・・。並木さんは届けられますか?
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